2004年11月26日

Alicia keys -3-

セカンド・アルバムは今年リリース予定とされており、またアリシアはパートナーの“クルーシアル”ブラザーズと、彼らの会社、クルーシアル・キーズ・エンタープライズで、他のアーティストたちの発掘とプロデュースを行っている。アリシアは常に長期的なヴィジョンを見つめているのだ。
「31歳のあたしにも41歳のあたしにも期待して。51歳のあたしだって、きっと期待は裏切らないわよ」
 そのために彼女は今ここにいる。
 もしもアリシアにここへ到達するまでの道のりを尋ねたら、おそらく彼女はスーパーウーマンにしかできないようなことを語るだろう。だがこの21歳の巨匠は、栄誉の上にあぐらをかいたりそこで休んでしまったりする人間ではない。この謙虚で知性に溢れたミュージシャンが掴んだ成功は、決してオーバーナイト・サクセスでもなければ安直なものでもなかった。彼女はきっと、一生懸命に行動し戦ってこなくてはならなかったんだ、と語るだろう。自分自身と、心から愛する音楽とを信じ続けなくてはならなかった、と。

 「ソングス・イン・Aマイナー」に収録された隠しトラック「ラヴィング・ユー」。このソウルフルでアレサ・スタイルのパワフルなバラードを歌い出す前に、出だしのピアノ・イントロで彼女は、
「待ってよ、ちょっとトライさせて」
 と声をかける。
 リスナーたちが最初に注目するのは、ラフな言葉使いで強調される彼女のその声だ。それはまた、ピュアなヴェルヴェットと評されるディープでメロディックな響きをも持っている。そしてそのまま楽曲に耳を傾けていると、次に聞こえてくるのはバックに流れるピアノのコード。モダン・ソウルやヒップホップのフックとクラシックの影響とを滑らかにブレンドさせながら、決してリズムを損なわず鈍い音も立てずに、アリシアは堂々たる存在感でピアノを伴奏している。


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2004年11月25日

Alicia keys -2-

 大学生活がスタートする直前、コロンビア・レコードと初の契約を結んだ彼女は、夢を追い求めるために通学を諦めるかどうかの決断を迫られていた。だが自由に楽曲制作をさせてもらえないことに苛立ちをおぼえ、結局“創造性の違い”からコロンビア・レコードを離れることになる。
「もう少し経験を積んで、自分独自の声を見つけたかった」と彼女は言う。
 しかしそんなアリシアの夢は19歳のときに実現した。当時アリスタ・レコードのトップだったクライヴ・デイヴィスが、コロンビア・レコードにお金を渡して彼女を引き取ったのだ。アリシアと同じヴィジョンを持つクライヴのもとで新しい居場所を見つけた彼女は、クライヴがJレコーズを立ち上げたときも彼についてゆく。自分が自分自身でいられる場所、“ホーム”と呼べるレーベルを、とうとうアリシアはさがし出すことに成功したのだった。
 それからすさまじいマーケティング・キャンペーンがスタートする。
「“フォーリン”はラジオのチャートではあまり奮わなかったが、あれは彼女の代表曲だったから、我々は局をずっと歩き回らなくてはならなかったよ」クライヴはそう語る。
 そんななかオプラ・ウィンフリーが番組にアリシアが出演することを承諾したとき、ターニング・ポイントはやってきた。TVの向こう側にいる4000万人の視聴者たちの前で彼女は「フォーリン」をダイナミックに歌い上げ、直後にアルバムの出荷は倍増した。
 2001年6月26日にリリースされたそのアルバム「ソングス・イン・Aマイナー」はチャートの第1位でデビューを飾り、その後29週もトップ20に残り、世界中で1000万枚以上のセールスを記録した。.ファースト・シングル「フォーリン」はビルボードのチャート、ホット100で何週間も第1位の座に居座り、結局第2位でその年を終えている。
 それからというもの、アリシアはローリング・ストーンやエッセンスといった15誌以上もの雑誌の表紙を飾ったり、数え切れないほどのTV番組にも出演。また常にソールド・アウトだったコンサートも、その第1部を最近ようやく終えている。手にした賞も数多く、VMAでは一つ、ビルボード・アワード、アメリカン・ミュージック・アワード、NAACPイメージ・アワードではそれぞれ二つ、ソウル・トレイン・アワードでは三つ、ワールド・ミュージック・アワードでは二つ、エコー・アワードで一つ、もちろんグラミー賞では五つも獲得している。それすべてがたった21歳のアリシアの功績なのだ。
 このように世界中で素晴らしい業績を残したアリシアだが、実生活の彼女はいまだに謙虚で現実的だ。もっとアリシア・キーズを求める人々に、今彼女は答える準備を整えているという。
「この先何年も、ずっとこの業界で活躍したいと思ってる」
 そう語る彼女のクリエイティヴィティは、さらに広大な場所へと彼女自身を導くことだろう。
「誰がなんといおうと、いつだって自分自身を信じるのよ」
 それはこの足跡へ続きたいと願う者たちへ捧げるメッセージだ。
 さあ次のステップはいったいなんだろう?


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2004年11月13日

Alicia keys -1-

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音楽性と外見の美しさと知性、そして才能溢れる創造性すべてを併せ持つアーティストを考えるとき、人々は誰の名前を思い浮かべるだろうか?
 おそらくアリシア・キーズのファンたちは迷うことなく彼女の名前をあげることだろう。黒人も白人も老いも若きも、オールド・スクールもニュー・スクールも、誰もがアリシア・キーズに魅了されている。そして彼女の活躍はまだ始まったばかりなのだ。

 NYで生まれ育ったアリシアは、最初から大成功を手中に収めるべく運命づけられていた。7歳でピアノを始め、ベートーヴェン、モーツアルト、ショパン(一番のお気に入り)といったクラシック音楽を勉強した彼女は、マリアン・マクパートランド、オスカー・ピーターソン、ファッツ・ウォーラーなどのジャズにものめり込んだ。14歳で始めて制作した楽曲「バタフライズ」は、前回のアルバム「ソングス・イン・Aマイナー」にも収録されている。そんな彼女のインスピレーションの源は、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、ニナ・シモン、ダニー・ハサウェイ、そしてビギー、トゥーパック、ジェイZ、ウー・タン・クランといったアーティストたちだ。彼女はこういった様々なジャンルの音楽を取り上げてひとつにまとめ、そこから自分自身のスタイルをクリエイトしている。
 だが彼女は決して平坦な道のりを歩んできたわけではない。白人の母親Terri Augelloと黒人の父親Craig Cookとの間に生まれたアリシアは、NYのヘルズ・キッチンと呼ばれる場所で育った。
「クールなところだったけど、あの当時の42丁目の治安は最悪だった。売春婦やピンプやドラッグ・ディーラーたちがひしめき合っていたわ」
 7歳でピアノを始めたのは、そんなストリート・ライフを切りぬけるためもあったのかもしれない。その後アリシアはプロフェッショナル・パフォーミング・アーツ・スクール(公立の演劇音楽専門高校)に通い、16歳までHarlem Police Athletic League Community Centerでコンラッド・ロビンソンにヴォーカル指導を受けていた。またハイ・スクールの卒業式では卒業生総代となり、コロンビア大学へ進学することも決まっていた。そしてレーベルをさがし始めたアリシアに、コンラッドは兄弟のジェフ(アリシアの“バットマン”*彼女を守るマネージャーの意)を紹介したのだ。

                                                               ++++++++++++++++++++  続く


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